切腹
切腹を見た。
監督は小林正樹。
脚本は橋本忍。
主演は仲代達矢。
井伊家の屋敷に元家臣の浪人がやってくる。
その浪人は、生活が苦しいから庭先で切腹をさせてくれと申し出る。
これを、屋敷の人間からしたら面倒臭いので金を払って返す。といいのが目的のゆすりの手法である。
それを言われた家老は「先日も若い男が来て、相当残酷な手段で切腹に至らしめたからやめとけ」
という。
でもその浪人は、切腹をさせてくれと申し出る。
そして、浪人が指名した介錯人3人がそろいも揃って病気で休みという。
そこから浪人がいかにして自分がここにいるかを語り始める。
という話。
3回目くらいの鑑賞だったが、こんなに良かったかなと感動。
話の筋として仲代達矢演じる浪人の目的がなかなかわからない。
ここで、家老含めて観客は「こいつの目的はなんなのだ」というサスペンスが生まれている。
この後に、過去に若い男が切腹に至るまでの話があるがこれが非常に残酷だ。
この若い男はほんとうにゆすりとして井伊家に来たのだが、
井伊家にしてみれば「なめるなよ、やすやすと思惑通り金を渡してたまるか」と
本当に切腹をさせてやるといい、
その若い男も1日だけ猶予をくれというが、それを許さない井伊家。
今すぐ切れと。
しかもその若い男が持っていたのは「刀」ではなく「竹光」。
竹光で切腹しろと申付ける。
本当にこの若い男は切腹を竹光でするのだが、このシーンが実に残酷。
なかなか一回では刺さらないから何回も自分の腹の肉をえぐる。
しかも介錯人が武士道を見せろとかなんとかで中々介錯をしない。
ただの拷問なのだ。
ここのシーンがあまりに残酷すぎるのでどうなのだという意見にたいして、
監督は「この竹光のシーンだけがこの映画で特筆して残酷だと思いますか?」
といったという。
このシーンはあくまでこの映画の残酷さを主張しているというだけのシーンなのだ。
この「刀」と「竹光」などは非常に重要な小道具で、この残酷さを出すためだけのものではなく、
後々に別の意味を持つ小道具となる。
この映画のハコを分けるとすれば、
①浪人が井伊家を訪れる。
②家老が過去に若い男が来て切腹を残酷な方法でさせたという話をする
④浪人が身の上話を始める。
(ここで、元家臣であったこと。戦国時代が終わって武士の食いぶちがなくなってこんきゅうしていること。若い男というのは娘婿ということ。娘と孫が病気で薬代を稼ぐために若い男はゆすりに来たということ。がわかる。)
⑤浪人と家老が言い合う。浪人が介錯人3人の眉を出す。(家老は井伊家のメンツが潰れると焦る。)
⑥浪人と介錯人3人との決闘。
⑦井伊家の家来たちとの大立回りのすえに浪人は切腹。
⑧家老はこれまでの過ちを隠蔽する工作をする。
というかたちで終わる。
若い男が竹光しか持っていなかったのは生活が苦しくて自分の刀を売っていたのだ。
それで見かけだけの竹光をさしていたと。
だが主人公の浪人は過去の栄光に縋るように刀だけは手放さなかった。
このことを主人公が悔いるシーンがある。のだがそのシーンが凄くいい。
竹光を持っていたことでこの若い男がどういう結末を迎えるかを知っているだけに、胸をえぐられるような思いである。
この映画は、時系列がバラバラなので、ハコ書きがしにくい。
こんな構成が50年前の映画でされていたというのがすごい
橋本忍の筆の腕力というか、剛腕というか、すごいのだ。
多少のツッコミどころはあるにはある
(身の上話するの唐突じゃない?とか)
でもそれを全く気にさせないダイナミックな話と構成なのだ。
このようなものをかけるのは本当に羨ましい。
最終的に、井伊家の家老は武士道だ。という建前で
結果的に武士道とは一番遠い所の行動をしてしまう。
そもそもこういう奴らは今でもいるのだ。
人の揚げ足をとるように、「社会の常識」などというようなだれが決めたのかもわからない
理屈を並べ立て、自分の都合のいいように陰湿な嫌がらせともいうべき言動を行う輩というものは今でもいるのだ。
ここでは「武士道」という形ではあるが
現代においては「社会人として」とか「大人として」とか都合のいい言葉がある。
そういう言葉が正しい時もあるが、そうでは無い時もある。
それ時々の状況とか環境とか人間の気持ちとかいろいろな要素があるのだ。
それをそのような都合のいい言葉や価値観で簡単に片付けずにその状況とちゃんと向き合えよ。
と思う。
流石にこの映画の時代に比べれたら現代の問題など優しいものではあるとは思うが、
根本的に同じものだと思う。
このことをエンターテインメントの映画として描いていることに僕は感動している。
日本映画屈指の名作なのだと思う。
「上意討ち 拝領妻始末」という映画もとても面白い。